コラム:医学研究の集い

医学部医学科長 村松 郁延
ヒトの体を顕微鏡で覗くと、さまざまな細胞が整然 と並んでいるのに驚嘆し、その数の多さと精密さから別世界・小宇宙を連想してしまいます。どうしてこのような世界が創られたのでしょうか。これまで私たち は、その<あまりにも微細・繊細な構造>と<あまりにも複雑・巧妙なメカニズム>そしていわゆる<生命>という高次かつ抽象的な生物現象を科学的に十分説 明できないため、“生命の創造主”を暗黙のうちに認めてきました。しかし最近になり、これらほとんどが遺伝子(ゲノム)の設計に基づいていることがわか り、ゲノム解析が試みられるようになりました。遺伝子が解明されたら、いわゆる“生命の創造主”の領域に近づけると考えたからです。そして、ヒトゲノム解 析が行われました。
解析前には、生体の機能からみて約8万の遺伝子の存在が予測されていました。ところが解析の結果、実際には3万5千ほどしか遺伝子は存在しない ことが明らかになりました。遺伝子がわかれば、われわれの体の全ての機能が説明できるという期待は、残念ながら肩透かしにあいました。“生命の創造主”へ の手がかりはつかめましたが、それだけでは不十分で、さらに解明すべき点があることがわかりました。
図1に、遺伝子から個体までの関係を示します。一つの遺伝子からは、一 つの蛋白質(すなわち1分子)が生成されます。しかしそれでは、生体で起こっている8万の機能すべてを説明できません。最近、遺伝子が蛋白質に翻訳される までに様々な修飾や調節を受けることや、多くの蛋白質がお互いに機能を調節し合っていることがわかってきました。このように生体は、遺伝子の数だけで単純 に説明できない多様性を持った個体として表現されます。この多様化を、図1では矢印の太さ・丸の大きさの違いで示しました。このどこが正常に働かなくても 病気や奇形の原因になります。
研究とは、パズルを解くことだといわれます。医学研究の目的は、ヒトの体の仕組みを解析し、病気を 克服することです。創造主の創られた3万5千からなるパズルの駒は解明されましたが、それに基づいて構築された集合体すなわち生体が示す多様な機能はまだ 十分説明できていません。記憶や学習などの高次機能は、まさにその代表例です。生命や知能といった複雑かつ高次な生体現象は、物理学や化学で語るためには あまりにも構造・機能変数が多すぎたため、これまで暗黙的に物質科学の「特別区」に押しやられ、抽象的な学問分野として扱われてきました。自然科学が、こ れまで物質・生命の二大領域になんとなく分かれてきたゆえんです。生体の多様化した機能を自然科学の方法を用いて解明する段階はこれからなのです。しか し、最近の物質科学における方法論の発達や生命研究への参入によって、物質レベルで「生体のパズルを解く」研究が加速しています。
21世紀科学の最大の課題は、“生命という特別な物質状態”の全貌を明らかにすることです。しかし、たとえ遺伝子が解明され分子が同定されたとしても、“ 生命という特別な物質状態”の神秘性は消えません。40億年間、突然変異と自然選択という妙手を使って地球環境を生き延びてきた“この途方もない物質”の 解明は、始まったばかりです。長い道程ではありますが、「生体のパズルを解く」研究に参加してみませんか?

図1. 生体における多様化と遺伝子(ゲノム)との関係
